国際派行政学者の挑戦

慶應SFCの教員。才能ないなりに世界レベルの行政学者を目指す40代独身男(負け組)のブログ -月1回ぐらい更新-

日本語と英語は異なり繋がる

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kacchin66さんによる写真ACからの写真 

先週の出来事ですが、最高傑作と勝手に自負する論文が(過去記事1)、ある行政トップジャーナルのデスク審査を提出後10時間でパスし、無事匿名審査員による査読に回されました...最短記録だと思います(^ ^; デスク審査を担当する編集長(Editor)の空き時間と合致しただけだと思いますが、公表されているデスク不合格率は60%だったので、幸先良いスタートと捉えておこうと思います。こんな小さなことも喜べないと、最終合格率10%以下のジャーナルの審査を受けるのに、精神が持ちません( ̄▽ ̄;)

 

そして、間髪入れずに初の日本語論文に取り組んだわけですが(過去記事2)、約8年ぶりに書いた文語の日本語は...結構イケてました!英語ばかり書いていたため、日本語を書く技術を失ったのでは?と心配になり、8年前に大使館で書いた報告書と見比べてみたのですがウガンダで勤務してたよ(前ブログ記事)、うまくなっているように思えるのです( ̄△ ̄)ナンデこの駄ブログの執筆が役に立っているとは、絶対思えませんし(笑) 一応英語で鍛えた何かと、関連があるのでしょうか...

 

日本語を書きながら、一番気になった英語との違いは、助詞です。例えば、"This study aims to examine the role of government for promoting citizen participation"は、「本稿は、市民参加を促進する(うえでの)政府の役割を検証することを目的とする」みたいになるのですが...「ことを」とか「とする」とかが、文章を長くするうえ、文語だと余計に堅苦しいイメージを与えます(´・ω・`) この助詞を、「ですます」調にするだけで、雰囲気が変わりますし、「検証することが目的である」とも書き換えられます。助詞は同じ専門用語を使用した文章の中にでさえ、その人の個性や性格を反映させてしまう不思議な効果を感じます。日本語は、そんな情緒的なものを表すのに優れた言語なのかもしれません。

 

一方で、文語の日本語を書きながら、日本語がマシになったと感じたのは、英語的な語順を日本語に導入すると、学術論文が分かりやすくなるためだと思われます。上記の文なら、「本稿の目的は、政府が市民参加の促進に果たす役割を検証することにある」みたいに、なるべく英語の語順に近い形で書くようになりました。英語は、機械的な事柄を分かりやすく伝えるのに優れた言語なのかもしれません。

 

自分の書く英語が、どのように日本語の影響を受け、ネイティブの人に受け止められているか知る術はありません。学術論文はただ客観的に事実を述べればよいという議論もありますが、統計分析が並ぶ自分の英語論文にも、日本人としての個性が少し感じられるなら、悪い気はしません(* ̄▽ ̄*)